シリーズ6 人車鉄道の歴史

ページ番号 1037080 更新日  令和6年1月30日


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[画像]鉄道の分岐点付近の敷石(136.9 KB)
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野田の魅力を発見!!

野田の醤油輸送は、江戸時代、醸造元の蔵から馬などを使って江戸川沿いの河岸(船着場)へ運んで、高瀬船に積み替え輸送していました。輸送量は、馬1頭で醤油樽7樽、普通の高瀬船1隻で1,200樽でした。明治時代になり醤油の生産量増加などで荷馬車が使われるようになりましたが、更なる輸送力増加として、醤油醸造家が株主となって野田人車鉄道株式会社を設立し、工場から河岸までの道路などに軌道を敷設してトロッコを人力で走らせる人車鉄道が明治33(1900)年に完成しました。
トロッコ1両を2人1組で押し、70樽(馬10頭分)が運べました。また2、3両を連結し馬1頭で引っ張ることもありましたが、大正時代後期にはほとんど馬車鉄道化していたようです。次第に自動車輸送に切り替わり、記録では大正14(1925)年以降に廃線となりました。現在の街中には人車鉄道の痕跡はほとんど残っていませんが、自宅前に人車鉄道が通っていた方の敷地内には今も敷石が残されています。所有者によると、線路の撤去工事の際に祖父が「良い石なので何かに再利用したい」とお願いしたらもらえたそうです。ほかにも、人車鉄道のレールを倉庫の骨組みに再利用していた商店主が「貴重なものだから」と、昭和56(1981)年に取り壊す際、郷土博物館に寄贈した3本が残されています。国産レールの製造は明治34(1901)年に官営八幡製鉄所(福岡県北九州市)で開始されたため、人車鉄道のレールは外国製レールで敷設されたと推測されます。

 

 

 


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