ページ番号 1037084 更新日 令和5年4月1日
市役所入り口の野馬除土手
[画像]丸1(63.5 KB)千葉県北部地域の土地は、下総台地と言われ、火山灰が積もってできた関東ローム層という酸性が強い地質のため、農耕には適さない土地が多く、自然発生的に牧場のようなものができていたようです。昔は牛馬の放養飼育地のことを牧と呼び、平安時代初期の延喜式(927年)(古代の法典)では、下総国には、高津馬牧・大結馬牧・木嶋馬牧・長洲馬牧・浮嶋牛牧の5牧が記され、下総台地一帯に古くから牧があったことがわかっています。その後、馬牧の経営や馬の育成に力を入れた江戸幕府は、小金牧と佐倉牧の2つの牧をつくりましたが、馬は野で育てて野で捕まえる形の放牧だったため、野馬は牧外の近隣の村や畑に侵入して農作物などを荒らしました。また、鹿や猪、狼、鳥類なども自然繁殖し、農耕被害も大きいもので、各村々は、高く堅固に築いた野馬除土手や深く掘った野馬堀で自衛しましたが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだようです。そうした被害を減らすため、野馬方代官の岩本石見守は関宿まで越えてきていた野馬を捕まえ他の牧へ放つなど、農民の訴えを聞いてくれました。現在も中里愛宕神社と船形香取神社にある石碑は、村人たちの感謝の気持ちがどれほど大きなものだったのかを表しています。小金牧は7牧(庄内牧、高田台牧、上野牧、中野牧、一本椚牧、下野牧、印西牧)あり、野田市内の牧は、最北端の庄内牧でしたが平坦で新田開発しやすかったことから、8代将軍の吉宗の時代、享保6年頃に消滅しました。市役所前の道路脇や南部中学校前などには、庄内牧の痕跡の野馬除土手が今でも残っています。
【参考文献】野田市郷土博物館『野田と下総牧』1988年
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