郷土に酪農を根付かせた偉人 鈴木貫太郎翁

ページ番号 1039043 更新日  令和5年9月4日


関宿と鈴木貫太郎翁の想い

関宿は、関東平野の中心に位置し、河川に囲まれることから軍事・交通の重要地として栄えた地域でした。
しかし、河川は恩恵だけでなくに水害という脅威も同時にもたらしました。そのため、関宿の歴史は水との戦いの歴史でもあります。明治後期から始まった河川改修事業の中で、堤防が築かれますが、これにより関宿の耕作面積は減少してしまいます。そんな故郷の様子を見て立ち上がったのが鈴木貫太郎翁でした。
貫太郎翁の農村への関心は海軍軍人時代から高く、農村における青年教育を目指した日本青年協会が設立された際には、会の名付け親となり、長らく顧問を務めていました。

鈴木貫太郎翁の酪農推奨と農事研究会

農事研究会は、昭和22年(1947)の秋に関宿の若い農家を対象に作られました。会の設立には、鈴木貫太郎翁のほか、貫太郎翁の主治医を務めた濱野政三や日本青年協会常務理事の青木常磐が関わっています。貫太郎翁は、自宅を勉強会の会場として提供し、講師の工面も私費で全て行っていました。その中でも貫太郎翁が特に推奨したのが、堤防を牧草地とした酪農の推奨でした。講師には、貫太郎翁の甥で、北海道大学農学部出身の岡本敏夫や酪農の専門家である猶原恭爾などが来ています。多彩な講師陣が参加した背景には、貫太郎翁や日本青年協会のほか、妻のタカ夫人の父が札幌農学校の出身で、親族に農学の関係者が多かったことがあります。

集乳所の建設とタカ夫人

鈴木貫太郎翁の亡き後、妻のタカ夫人と農事研究会に引き継がれた酪農振興は、徐々に理解者と生産量を増やします。牛乳を出荷するために一時保管する集乳所は、鈴木家の門脇にあった守衛所を再利用していましたが、生産量の増加に伴い本格的な集乳所が必要となってきました。そこで、鈴木家の敷地内に集乳所を作りますが、更なる生産量増の増加により手狭となってしまいました。
そのため、昭和29年に酪農組合で集乳所を建設します。この時も、土地はタカ夫人の好意で鈴木家から提供されています。

 

[画像]石碑と訳文(66.6KB)

注:石碑の表面文は、石碑に刻まれたままの文字を掲載しています

鈴木貫太郎翁終焉之地碑

鈴木貫太郎翁が推奨した関宿の酪農は、農事研究会をはじめとする若手農家の努力とタカ夫人らの協力もあり、昭和40年頃には2,000頭近くが飼育される程まで成長しました。
そして、地域に産業の根付かせてくれた恩人である貫太郎翁を顕彰するため、昭和33年に農事研究会により「鈴木貫太郎翁終焉之地」の石碑が建立されました。

[画像]終焉の地(86.5KB)

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