ページ番号 1032579 更新日 令和4年4月1日
このページは、グラフ野田48号(2015年)から転載しました。内容は、掲載当時のものです。
昭和10年代まで、当時の関宿町における産業といえば、水稲と養蚕(カイコ)が中心でしたが、昭和14年(1939)の秋、町は9頭の乳牛を静岡県の三島地方からまとめて購入し、農家に分配しました。農家が自分のところで搾乳をするようになったのはこのころからで、当時は、まだ頭数も少なく、野草や稲わらをエサとして与えていました。
終戦後、内閣総理大臣を辞した鈴木貫太郎翁は、幼いころを過ごした関宿に戻ってきます。天気の良い日には、タカ夫人と散歩をしながら、近隣の農家と話をするのが日課のようになりました。翁は、利根川の堤防に注目し、これを利用できないものかと考えていたのです。
昭和22年(1947)の秋、地元の青年24人により農事研究会が立ち上がると、翁は知人や親せきなどを講師に呼び、毎月1回程度、農事改良、特に酪農の話を聞かせました。
農家の安定した収入確保のため、「堤防を上手に使用することだ。堤防に牧草の種をまき、乳牛を飼うべき」と説き、夫人とともに、地域の特性を生かした酪農の普及に力を注ぎました。
こうした背景には、関宿町では水害に対する河川改修で、築堤のために水田が買い上げられ、1戸当たりの耕作面積が小さいということがあったのです。
昭和23年(1948)の春に貫太郎翁はこの世を去りますが、翁の教えは徐々に浸透していき、農事研究会のメンバーが中心となって昭和24年(1949)に酪農組合が設立されました。
タカ夫人は、自宅敷地内に集乳所を建設したほか、酪農組合の顧問となるなど、側面から活動を支えてきました。
乳牛の飼養頭数も増え、これまでの集乳所が手狭となったことから、昭和29年(1954)、鈴木家の敷地内に新たな集乳所が建設され、記念碑が建てられました。この碑は「集乳の碑」と呼ばれ、今も鈴木貫太郎記念館の東側駐車場の一角に見ることができます。
また、隣接地には、明治乳業の集乳所(現在はJAちば東葛が関宿集乳所として施設を使用)も誘致し、境や五霞、幸手などからも生乳が運ばれ、にぎわいを見せるようになりました。
こうして、昭和40年(1965)ごろには飼養戸数も200戸を超えるまでになったのです。
その後は、生乳の計画生産や牛肉輸入自由化、飼料の価格上昇などさまざまな要因から、飼養戸数は減ったものの、現在も市内には23戸の酪農家が生産を続けています。
学校給食に地元で搾られた牛乳も提供され、子どもたちの力になっているほか、一部の牛ふんは、「もみ殻牛ふん混合堆肥」に姿を変え、野田市が進める「環境にやさしい農業」に向けた減化学肥料の野菜づくりにも役立つなど、今も貫太郎翁の奨励した酪農は、関宿の地にしっかりと根付いているのです。
「正直に肚を立てずに撓(たゆ)まず励め 鈴木貫太郎翁の遺訓と関宿の酪農」山崎農業研究所・平成15年
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